OpenAIがSoraチームを解体した。
チームを率いていたBill Peeblesが4月17日にXで退職を発表して、同日にはVP of AI for ScienceだったKevin Weilも「最後の日だ」と投稿した。
Soraだけじゃなく、科学者向けワークスペース「Prism」も終了が決まったらしい。
このニュースを読んで、最初に思ったのは「やっぱりAI企業って変わるのが早い」ということだった。
Soraが出てきたとき、動画生成の未来がそこにあるような空気があった。
それが1年ちょっとで優先度を下げられて、チームごとなくなる。
フリーランスのデザイナーとして仕事している私にとって、これは他人事じゃない。
MidjourneyもAdobe Fireflyも、日常的に触っているツールだ。
でも「今日使えてるから明日も使える」という保証はどこにもない。
PeeblesはXへの投稿でこんなことを書いていた。
「人生においてモードが崩壊して最も重要なことに集約されがちだが、エントロピーを育てることだけが研究機関が長期的に繁栄する唯一の方法だ」
翻訳がまわりくどいけど、要するに「一点集中しすぎると大事なものが死ぬ」ということだと私は読んだ。
これ、デザイナーにもすごく刺さる話だ。
クライアントから「AIで早く安くできるでしょ」と言われるたびに、私はツールへの依存度を少し上げてしまっている。
でも依存した先のツールが突然なくなったとき、自分に何が残るか。
Soraチームが解体されたのは、OpenAIがコーディングとエンタープライズ向けに軸足を移したからだという。
ビジネス判断としては理解できる。
でもユーザーの側には「慣れてたのに」という喪失感が残る。
私がAIツールを使うとき、いつも意識していることがある。
「このツールが消えた後も、私のデザインの判断軸は残るか」という問いだ。
Midjourneyで出力した画像をそのまま納品するのと、叩き台として使って手を入れるのでは、残るものがまったく違う。
Soraの件を見て、改めてそこを考えた。
ツールへの習熟は資産になるけど、ツール依存は負債になりうる。
その境界線を、自分でどこに引くかだと思う。
Peeblesは「Soraはここでしか生まれなかったプロジェクトだ」とも書いていた。
OpenAIという環境があったからできた、という言葉だ。
同じように、私のデザインも「私という環境」があるから生まれると思いたい。
ツールはその環境を豊かにする道具に過ぎないはずだ。
とはいえ、これは理想論でもある。
実際には「競合がAI使って半額で同じもの出してくる」という現実がある。
使わないと仕事を取られる。でも全部任せると自分がいなくなる。
そのジレンマはSoraが消えても変わらない。
今週末、自分の仕事の中でどのプロセスにAIが入っているか、一度棚卸しをしてみるつもりだ。
そのプロセスが明日なくなったとして、代替できるか。代替できない場合、自分に何が残るか。
答えが出なくても、問い続けることに意味があると思っている。
チームを率いていたBill Peeblesが4月17日にXで退職を発表して、同日にはVP of AI for ScienceだったKevin Weilも「最後の日だ」と投稿した。
Soraだけじゃなく、科学者向けワークスペース「Prism」も終了が決まったらしい。
このニュースを読んで、最初に思ったのは「やっぱりAI企業って変わるのが早い」ということだった。
Soraが出てきたとき、動画生成の未来がそこにあるような空気があった。
それが1年ちょっとで優先度を下げられて、チームごとなくなる。
「使いこなしてた」が突然使えなくなる怖さ
フリーランスのデザイナーとして仕事している私にとって、これは他人事じゃない。
MidjourneyもAdobe Fireflyも、日常的に触っているツールだ。
でも「今日使えてるから明日も使える」という保証はどこにもない。
PeeblesはXへの投稿でこんなことを書いていた。
「人生においてモードが崩壊して最も重要なことに集約されがちだが、エントロピーを育てることだけが研究機関が長期的に繁栄する唯一の方法だ」
翻訳がまわりくどいけど、要するに「一点集中しすぎると大事なものが死ぬ」ということだと私は読んだ。
これ、デザイナーにもすごく刺さる話だ。
クライアントから「AIで早く安くできるでしょ」と言われるたびに、私はツールへの依存度を少し上げてしまっている。
でも依存した先のツールが突然なくなったとき、自分に何が残るか。
ツールが消えても「私のやり方」は残るか
Soraチームが解体されたのは、OpenAIがコーディングとエンタープライズ向けに軸足を移したからだという。
ビジネス判断としては理解できる。
でもユーザーの側には「慣れてたのに」という喪失感が残る。
私がAIツールを使うとき、いつも意識していることがある。
「このツールが消えた後も、私のデザインの判断軸は残るか」という問いだ。
Midjourneyで出力した画像をそのまま納品するのと、叩き台として使って手を入れるのでは、残るものがまったく違う。
Soraの件を見て、改めてそこを考えた。
ツールへの習熟は資産になるけど、ツール依存は負債になりうる。
その境界線を、自分でどこに引くかだと思う。
Peeblesは「Soraはここでしか生まれなかったプロジェクトだ」とも書いていた。
OpenAIという環境があったからできた、という言葉だ。
同じように、私のデザインも「私という環境」があるから生まれると思いたい。
ツールはその環境を豊かにする道具に過ぎないはずだ。
とはいえ、これは理想論でもある。
実際には「競合がAI使って半額で同じもの出してくる」という現実がある。
使わないと仕事を取られる。でも全部任せると自分がいなくなる。
そのジレンマはSoraが消えても変わらない。
今週末、自分の仕事の中でどのプロセスにAIが入っているか、一度棚卸しをしてみるつもりだ。
そのプロセスが明日なくなったとして、代替できるか。代替できない場合、自分に何が残るか。
答えが出なくても、問い続けることに意味があると思っている。